岩沼昔話
竹駒さんのお使いと野狐
仙台藩主伊達睦奥守の家来、長谷出羽は武勇の士として正宗の時から八百貫を領して、岩沼を居城としていた。
有る日、つれづれなるままに鷹狩に出かけた。鷹は雲雀を見つけ、これと羽合わせをして忽ち落としてしまった。折りしもこの野原に昼寝をしていた野狐が空から雲雀が降ってきたので、得たりとばかり捕って食べてしまった。出羽の家来は捕らえんとしたが及ばず、野狐はご馳走さまとも何とも言わず、後ろを振り向きながら逃げ去った。納まらないのは出羽である。
折角、愛鷹の獲物を野狐に横取りされて、怒り心頭に燃え「怪しからん、この里の鎮守竹駒神社こそ日頃、吾が氏神として崇敬怠りないのに、稲荷のお使いの狐が吾が獲物を横領するに及んでは許しておけん」と威丈高に怒って日頃の崇敬の念も忘れて神前に馬で乗り付け、大音声に「いかに明神、吾等領分に鎮座ましませばこそ崇敬怠りなかったのに、今の仕儀はなんとした事か。今より後は吾領土の者の参詣を禁じ申す。」と独り怒りに怒って帰城した。
処が、その牛の刻覚しき頃、百姓共が昼起した苅野の方に当って沢山の燈火が見えるので、早速城中に注進に及ぶ者があったので、家来をやって確かめさせると、その灯りは竹駒神社の方に向いていた。
その翌日、朝早く藤波の渡しの船頭が「竹駒の古松の梢に野狐の皮が葛の蔓で縛られている。人間技とは思えない。」と立ち騒いでいるので、家来を見ると本当なので、斯々(かくかく)と城中に進駐に及ぶと、この報告を聞いて、出羽もさすがに恐縮して「平に、平に」と明神の方角に手を合わせた。
それからというものは一層神社を崇敬、何事によらず寄進を怠らなかったという。
竹駒神社にまつわる奇談である。
金蛇さまのビッキ石
昔、三条小鍛冶宗近が、一条帝(平安時代)の六願によって、子狐丸の宝剱を鍛えんとして陸奥へ下った。
やがてたどり着いたのが今の金蛇沢であった。宝剱を鍛えるのに佳い土地であるので、ここを住居に定めて、一心不乱に宝剱を鍛えていた。時あたかも五月雨の頃で、蛙の啼き声に妨げられて、精神の統一が出来なかった。宗近は、一策を案じて、鉄の蛇を作って、池に放つと、忽ち蛙の啼き声は止んだ。翌朝田を見ると、田の畔(あぜ)に大きな蟇蛙(がまがえる)が石と化していた。東海道の一本松の傍らにあるビッキ石は、その時の蟇蛙だと言い伝えられている。
金蛇水神社の守護神は、女神の弁財天がご本尊で財宝富貴の神として信仰を集めている。 蓄財を、こい願う時は、無断でご神体を借用して、我が家に杞り、やがてひそかに神社に返すか、または、賽銭箱から必要なだけ無断借用し、やがてお返しすれば財はみるみる増えて大金持になると伝えられている。これは神社の不文律で神社でも大目に見ていると言う。(内海 恒治郎)
私たちの岩沼の由来
昭和46年11月1日に市制がしかれた、私たちの岩沼市は、さきの昭和30年4月1日に千貫、玉浦の三ヶ町村が合併して岩沼町となり、当時の人口は25,303人であって、町役場は岩沼町字町72番地に置かれた。現在の市役所は、桜1丁目6の20に所在しているが、市制当時の町役場の所在地を記念して、今旧国道4号線ぞいの農協玄関脇に「岩沼市役所始元の地」の記念碑が建てられてある。
さて、私たちのふるさと岩沼の地名の由来を古文書によって調べてみよう。 岩沼は昔、「武隈の里」と呼ばれ名取郡内の七郷のひとつであった「玉前郷(たまさきのあと)」(玉崎)に属し、古くから開けた地方である。多賀城の国府(724年)に先だって、この地に陸奥の国府が置かれ「武隈の国府」と呼ばれていた。この「武隈」の名はアイヌ語の転訛と言われている。それは阿武隈川の水神であって、今、岩沼市の対岸の亘理町逢隈田沢の水神山に祀られてある「安福河伯神社(あふくかはくじんじゃ)」につながるアイヌ語の「アブクマ」が、古文書には「阿武隈」と書いてあったが、平安の頃に「阿」の字を取り去って「武隈」となり、更に竹駒寺の先祖、能因法師にあやかってその縁起にちなんで「武隈(たけくま)」を「竹駒(たけこま)」と呼んで岩沼の地名にしたという。
しかし、その後「武隈・竹駒」の地名とまったく別名である「岩沼」と呼ぶようになったことについては2つの説が、宮城県地名考(著者 菊地勝之進)に堂々と書かれてある。 その1つは、今から4百年前の戦国時代の天正年間のことである。伊達家の家臣、泉田安芸重光が、この地に築城して「鵜ヶ崎城」と称した。このお城回りの堀が「沼」になっていて、10の沼があった上に、このお城の一角と沼とを併せて「岩沼」と呼んだといわれている。 現在の1地区町名に鵜ヶ崎があるが、この鵜ヶ崎はお城の「一の丸」にあった所であるという。
このことは江戸末期(1776年)の安永風土記の岩沼の郷の項に「往古は武隈申せし由、何年の頃から岩沼と申されしか不明であるが、御要害脇に岩沼と申す「沼」があった故に、かく言われたと云うとある。」
さて、次の一説には、平安時代末期の後三年の役の頃のことである。 「岩沼八郎」という野武士がこの地方に出没して、民家を荒らし回っていたので、他郷の名取の里人や、亘理、柴田の里人がこの名を取り、この地を「岩沼」と称したというのである。野武士がこの地の民家を荒らし回ったことは、人々にとっては大きな恐怖であったろうし、このままの話による「岩沼」の地名としては香ばしいものではないと思われる。若しこの野武士が、義侠心に富んでいたか、極端に言えば、悪さの行動が、前代未聞だったので、岩沼の地名の起因になったのかもしれない。
この両説の何れが真か、また何れの説が先か、詳らかではないが、相互に関連しているものと思われる。(齋 喜吉)